『怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることがないよう、気をつけなければならない。 
深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ。』

 ――――フリードリヒ・ニーチェ 『ツァラストラトゥはかく語き』









 僕はイルカのマリン。知恵持つ者。
 この海の生き物を楽しませる為に生まれてきたのが僕さ。どうやって楽しませるかって言うと、それは僕の唄。深い海の底まで届く、自慢の声さ。誰もが、僕の唄を楽しみにしてくれている。でも、実はみんなが聞いている僕の唄は、本当の唄じゃない。本当の唄は、届く生き物にしか届かない。それはいつでもたった一匹だけなんだ。聞いてくれる、そのたった一匹を探して、僕は海を泳ぐ。勿論毎日見つかるわけじゃない。でも、これは僕一人でやらなきゃいけないんだ。さびしくなんかないよ。それが、僕に与えられた役目で、生きる意味なんだ。そこに不満はないし、疑問を持ったことも無い。勿論、この海に生きる生き物全てがそうだってわけじゃない。不満を持っている者たちも決して少ないのは確かだ。でも、僕は僕なんだ。その役目があるだけで、生きるコトに満足感を得られる。それは、とてもとても幸せなことだと思うんだ。

 ……僕はイルカのマリン。誰かに望まれて生まれた者。
 足はそんなに速くないけど、誰も僕を食べようとはしないんだ。それは決まってるコト。海には色んな生き物がいる。それぞれの役目があって、みんな色々係わり合いながら生きているから。僕は、いつも自由に海をさすらっている。そういう役目なんだ。食べられないという特権はあるけど、でもそれだけ。群れることは許されないし、子供を作ることだって許されない。僕が死んだら、またどこからか別のイルカがやってきて、そいつが死んだらまた別の奴がどこからかやってくる。それは決まっていることなんだ。だから僕は、ただ役目を全うする。
 勿論、楽しいコトばかりじゃない。いっつもおっかない顔したサメは、期限が悪いと本気で襲い掛かってくるからね。アイツらから逃げて深く潜れば、シーラのじいちゃんの口うるさい小言を聞かせられるし。友達だった気のいいイワシ達も、最近はめっきり見なくなっちゃった。たまに会うのんびり屋のクジラと話したり、僕の唄に合わせて踊ってくれるイソギンチャクたちと遊ぶのが、最近の楽しみかな。
 
 僕は、イルカのマリン。誰かに意味を与えられて生きている筈の者。
 そろそろお日様が昇る時間。いかなきゃ。あんまり遅れると、そのたった一匹はどこかに消えてっちゃう気がするんだ。












 「システム起動完了。機器接続端子ロック。対象検索シークエンスに入ります」
 「被験体、脳波レベルグリーン。血圧140、心拍数○○、培養カプセル内温度39℃、全て許容範囲内です」
 「”調律者”<リンクチューナー>より報告。”異常ナシ”、です」
 「擬似精神領域<ホワイトスフィア>構成完了。映像に変換後、一番モニターに出します」
 「現在、第三次実働試験項目の20%を消化。監察官の評定は現在のところ、問題ない、とのこと」
 「よろしい。各セクションはそのまま待機。オペレーターズ、生体擬似脳の同調開始後、報告は密に」

  はい、と乾いた返事だけが、電子臭に満ちた部屋に響いた。




 

 多くの魚がそうであるように、僕の寝床は海なんだ。海は多くの生き物が息づく場所だけど、夜はとっても静かさ。
 海っていうのは大量の水のたまり場。夜に生きる者達は、物静かなものが多いんだ。だから、そういった生き物達の気分や、性質ってものを読み取って、水は姿を変える。彼らはあんまり音を立てるのは好きじゃない。夜は、水が動く音だけが響く、静寂の世界に変身する。起きているにはちょっと寂しいけど、クラゲやホタルイカのみんなはそんな海が好きみたい。僕も、彼らのほのかな光を帯びた姿は好きだけど、どうしても寝ちゃうんだ、情けないことにね。残念といえば残念。でも、僕ら魚は昼の生き物で、彼らは夜の生き物。それぞれに役割分担があって、初めて海なんだ。それを教えてくれたのは、優しいクジラのおにいさんだったっけ。彼にも、海の生き物たちに色んな事を教えて回る、っていう大事な役目があったからね。
 朝になると海はやっぱり賑やかになる。多くの生き物達の生きる鼓動が水を通して伝わってくる。そのリズムは、とても僕には表現できないくらい、リズミカルで情熱的だ。音楽の一つの境地といってもいいかも知れない。
 寝覚めの体を奮い立たせて、ゆっくりと泳いでいく。海はその日その日で全くその姿を変える。水の質感が違うんだ。だから海の生き物は皆、起きたらまずは今日の水に体をあわせることから始める。あまり生き物のない海の深い所と違って、多くの生き物達が生活してる浅い海の水はすぐに表情を変えてしまうのだけど、それでもやっぱり根っこに流れる”匂い”は朝から日が暮れるまで変わらない。
 夜の冷たい水に浸かって固まった体をほぐしにあちこち泳いでいると、すぐに色んな生き物にあった。なまけもののタコや、はたらきもののサンマの群れ、いつも憂鬱そうな顔をしているコンブに、そんなコンブにくっついて励ますウニ、泳くことが大好きで全く落ち着かないマグロ、のんびりと浅海の底を散歩してるカレイ。朝はみんなが動き始める時間だ。それぞれがそれぞれの動きをしている。

「やあ、マリン」
「御機嫌よう、マリン君。今日も君の唄を楽しみにしているからね」
「あ、唄謡のイルカさんだー」

 ありがとう、とみんなに挨拶を返しながら、今日の水に慣れてきた体を、思いっきり伸ばす。僕のしなやかな体は、やっぱり唄謡には無くてはならないもの。誰かに何かを伝える為にはまず自分の体をしっかりさせないといけないんだ。弱弱しい生き物から何を言われたって説得力がないからね。うん、だんだん楽しい気分になってきた。じゃあ、こんな気持ちいい朝に相応しい唄をみんなにプレゼントしてから、今日の”声”を探しにゆこう。


 
 みんなおはよう 朝の海
 みんな元気さ  朝の海
 お寝坊はだあれ? 

 さあさ 旅の歌唄い イルカのマリンのご出発 
 みんなが みんなが 手ぇ振って 
 
 さあさ 


 やっぱり朝一番の歌はとても清清しい。みんなが一番生き生きとしている時間だけに、水に嫌な感触がなくて、声がよく通るんだ。その声一つ一つにありがとう、と返事をして、僕は大きく体を反らし、水を蹴った。
 船出の時。旅の唄謳いイルカの、出発さ。僕が生まれてから過ごしてきたどの海よりも、この海は本当に居心地が良かった。生き物たちもとても陽気で、友達だって出来た。一生過ごせてしまいそうだけど、それは僕の”役割”じゃない。
 
 僕は旅のイルカ。僕の本当の歌が必要な生き物の為に、僕は旅立たなきゃいけないんだ。
 



 




 今日の”声”は、遠い遠い東の海、深海の底から、今にも事切れそうなくらいに、弱弱しく、聞こえてくる。
 僕はあまり深い海が好きじゃない。僕の自慢の体なら、一応どの海でも暮らしていけるし、暖かい流れも寒い流れも、強い流れも弱い流れも、関係なく泳げるんだ。
 でも、ずぅっと昔から、生き物達の死骸が降り積もってきた場所の匂いは、どうしても好きになれない。そういう深い海の匂いは一度行ったらなかなか取れなくて、ずっとつきまとってくるんだ。深い海は、水の流れもおかしい。何だか誰も入れないように、速い流れが周囲を渦巻くようにして流れているし、中に入れば、今度は逃がさないように、あちらこちらに流れを作ってる。
 でも、僕の『歌』を本当に必要としてる生き物は、いつもそういう海にいる。しかも、海の一番底の辺りに。そこまで潜ってしまえば、もう流れは関係ない。代わりに、心が直接底の底まで引きずり込まれるような、重さを感じる。気の弱い生き物なら、逆らえないぐらいの、負の引力。
 深く潜れば潜る程、生き物達の声は遠ざかり、悲鳴とも、唸り声とも、絶叫ともつかない、不思議な音の波が近づいてくる。確実に潜っているという手ごたえがなく、いくら尾ひれを動かしても、底に近づいている気がしない。遠近感がないんだ。周りもよく見えないから、とても怖い。
 ふと、音の波がとぎれた。声の主の近くまで来ると、声は聞こえなくなるんだ。もう近いのかもしれない。ようく目を凝らしてみると、魚の骨が散らばり、でこぼこした岩の森と、幾層にも死骸が重なった海の底が見えた。何度来ても慣れない光景に、背筋が寒くなる。
 すると、岩陰に一つの、小さな、平べったい影が見えた。影は、ときどき、うぅ、と唸っては、小刻みに震えている。

 「こんにちわ」

 声をかけると、びくっと震えて、ゆっくりとこちらを向いた。どうやら、カレイのようだった。体のあちこちに死んだプランクトンがこびりついていて、ずいぶん長い事ここに居ることがわかる。カレイは、口をぱくぱくさせながら、よく聞き取れない発音で話し始めた。

 「……………………ぅあ、なぃ、た…thだぁ、gれい?」
 「僕は旅の歌唄いのマリンさ。君が僕を呼んだのかい?」
 「……わつぃは、だr目尾もよんでなっきぁいないぃ」
 「でも、声が聞こえたんだ。あれは君の声だったよ」
 「」
 「……あなtxざいあ、へんなひと」
 「うまくしゃべれないの?」
 「そう、おかしな水を飲んじゃったせいかしら。でもその水、とっても不思議な味がするの」

  カレイはそのままべらべらと『おかしな水』について語りだした。不思議な事に、彼女はその水のことを喋るときには元気になるらしい。いや、興奮すると喋り方がまともになるようだ。

 「初めは驚いたわ。トビウオたちの噂話に出てくる「虹」みたいにきらきら光ってるんですもの。この東の海の生き物は、みんな強がってるけど、ホントは怖がりだから誰も近づかないの。だから、変わり者の私が、みんなの代わりに飲んであげたの」

 本当は喋り好きなのかもしれない。しかし、目はどんよりと濁っていて、ともするとここの暗い水に溶けてしまいそうだった。

 「最初は、ベトベトまとわりついて気持ち悪かったけど、慣れるとこんなに美味しいものはないわ。あなたも飲んでみたら? 気持ちよくなれるわ」
 「でも、今の君はちょっとおかしいみたいだよ」
 「おかしい? みんなに同じ事言われたわ。でも大丈夫、私は元々おかしかったから」

  きゃきゃきゃきゃ、とおかしな笑い声をたてる。

 「私ね、全然ダメなの。エサをとるのもヘタだし、みんなからは暗いって嫌われるし、生きてる意味なんかないの」

  変でしょ、おかしいでしょ、と続けて、またおかしな笑い声をたてた。

 「でも、君はこの死んだ海にいるんだね。こんな所にいちゃ、生き物は誰も来れないのに」
 「そりゃそうだわ。一人になる為にここに来たんですもの」
 「友達とかは?」
 「私には友達なんていないわ。いらないもの」

  そうなんだ、とだけ頷いて、僕は言葉を切る。

 「何が言いたいの。あなたみたいな、強くて自由なイルカには、私みたいな弱くて暗い生き物の気持ちなんか分からないわ」
 
  

 「そう、貴方達はいつだってそう。私の気持ちなんか考えもしないで、上から見下ろすように物を言うの。いかにも自分が正しい、お前が間違ってるっていう顔で。まともになれ、って。いつもそうやって責めるの。じゃあ、どうしろっていうの」
 「じゃあ、みんなが言うように努力してみたら?」

  わざと軽い口調で言葉をぶつける。

 「勝手な言い草ね。そりゃ、私だって私なりに努力したわ。でも、ダメだった」
 「じゃあ、もっと努力してみたら?」
 「これだけ努力してダメなら何やったって変わらないわ」
 「何故そう言い切れるの? やる前から諦めるの? どれだけ努力したの?」
 「分からないくせに偉そうにものを言わないで」

  

 「分かって欲しいの?」
 「え?」

  

 「そんなに分かって欲しいの?」
 「何を言ってるの? 別に分かって欲しくなんかないわ。ただ、わかったふりをされるのがいやなだけなの。構わないでほしいの」
 「そう、どうせ私はおかしな変わり者なの。だからみんなから嫌われるし、誰とも会いたくないし、会う必要もないの。一生こうやって過ごすの、そう決めたの。そっとしておいてちょうだい」
 「でも、そんなこと、キミは望んでないよね」
 「なんでわかるの。なんであなたが私のことをわかってるみたいに」
 「だって、すごく未練があるじゃない。嫌われたくない、だからキミなりに努力した。でもダメだった。だからキミはキミを嫌った全てを嫌って、ここに逃げてきた。嫌われるのがイヤだから努力したし、逃げてきたんだよね」
 「だから何、何もわからないのにわかったようなことを言わないで」

  カレイは僕の周りをぐるぐる回って、甲高い、ヒステリックな声をあげながら僕の体に噛み付いてくる。とても暴力的。
 でも、怖くなんか、ない。

 「うん、僕には何もわからない。僕はキミじゃない。キミにはなれないから。だから、僕は歌を歌うだけさ」

  気持ち悪いのを我慢して、水をごくんと飲み込み、歌う準備を体の中で整える。本当の「歌」はとても歌うのが大変。だから、体の中身を
 やめて、聞きたくない、と逃げようとするカレイの行く手を、先回りして阻み、押さえつける。僕の歌はいつだって強引。だけど、そうでもしない限り、カレイみたいな生き物達は、僕の歌を聞かないから。そうでもしなけりゃ、僕のような、直接関係のない生き物は、理解してもらえないんだ。

 
 

 
 体をぴくぴくと震わせて、うえ、っとカレイは黒い汁を吐き出した。病気になった生き物は、色んな悪いものを体の中に溜め込んでいるから、吐き出さなきゃいけないんだ。でも、それでも病気そのものが治るわけじゃない。治ったようにみえるだけ。体は元通りになって、心も閉じこもらなくなるけど、その後また浅い海で泳ぐかどうかは、カレイ次第なんだ。
 これで、僕の仕事はおしまい。僕は歌を届けるのが仕事だから。

 早く深い海を抜けよう。ここは息が詰まりそうで、とてもおっかないんだ。それに、僕はとても疲れてた。病気になった生き物と会うのも、話をするのも、本当の歌を歌うのも、とても疲れることなんだ。

 でも、時々思うときがある。どうして、僕はそういう役割を与えられたんだろう。そもそも、誰から与えられたんだろう。僕には、他の生き物と違って、親もいないし、兄弟もいない。いつもイルカは僕一人。孤独なのかもしれない。そう思ってしまえば、もう唄えなくなるような気がして。
 いつまでこんな事を続ければいいんだろう。こんなことは誰にも聞けない。みんな自分の事で必死だから。役目に疑いを持ったら、海で生きていけなくなる。
 でも、明らかに「僕」はおかしい。みんなと違う。みんなは旅もしないし歌も歌わない。
 じゃあ、そもそも、僕って何なんだろう。生き物って、病気って、おかしな水って、歌って、言葉って、海って、意味って何なんだろう。
 不明不明不明不明。

 そんな時には、いつも唐突に頭がおかしくなる。
 頭の中身が全部ぶちまけられて、ぐるぐる海流にかき回される感覚。やめてやめてやめて。
 僕が僕を保てなくなる。頭にびりっとしたものが走って、目があっつくなって、体が動かなくなって、海が消える、世界が終わる。

 そして、
 起動され、
 操作され、
 挿入され、
 消去され、
 分別され、
 調整され、
 分割され、
 連結され、
 除去され、
 置換され、
 初期化され、
 再設定され、
 再起動される。
 再起動再起動再起動再起動再起動再起動再起動。ビー。脳波パルス異常値に到達。接続端子異常加熱。データファイルが壊れています。ファイルが開けません。以下のパターンから対処してくださ。エラー報告をしま。中止コマンド入力、マザー受諾。実験継続不可。現在起動中のタスクを終了します。
 繰り返し、無限の螺旋階段、無明の闇、有限の光、塩基配列の崩壊、ゲシュタルト。
 
 そして闇。





















 ふと、何かの鳴き声のような音が聞こえたような気がして、物思いに耽っていた思考が断絶された。
 不意に眼球が明確に職場である研究所の風景を捉えて、現実に意識が引きずり戻されるものの、うまく現状が認識できない。背中にはびちょりとした湿った感覚があって、平洋介は、思考がまとまりきらないまま、反射的に身をぶるっと震わせた。

 「どうした、平?」

 すかさず、隣に立っていた友人の横山が顔を覗き込んできた。
 無理もない。顔には自分でわかるほど血が巡っておらず、額を拭うと大量の冷たい汗が指を濡らす。訝しそうに顔を覗き込んでくる小柄な同僚に、何でもない、と小声で返して、洋介はようやく、今自分が参加している研究の、プレゼンテーションの場にいるのだ、という事を思い出した。

 「しっかりしろよ、こんな所で倒れたりなんかしたら、あとあとあのねちっこい教授様から、何されっかわかんないからな」
 「――――本日は、私どもの研究の為に大勢の方々にお集まり頂き、誠にありがとうございます。このような場を設けて頂いた○○新聞社様に、この場を借りて、心からの感謝を述べたいと思います――――」

 急遽容易したスクリーンを背に、いかにも間に合わせといった真新しいスーツを着込んだ壮年の男――――この「村上生体化学研究所」の所長、村上辰夫教授が甲高い声を張り上げている。通例では、こういったプレゼンはまず会議室で関係者の挨拶と企画概容が説明され、その後に実際に研究施設の見学、となるのが通例だ。しかし、今回のプレゼンでは予想外の国内外マスメディアや同業者の注目を受け、設備の会議室では人が入りきらない、という事態が起き、異例の研究室そのものをプレゼンの場にする、という方法がとられた。元々、研究所はオフィスのみ新築で、研究施設は小規模の廃工場を増改築したものである為に、スペースだけはあった。常になく整えられ、見栄えのよくなった第一研究室に、様々な職業の人々が集まっている姿は、本来ならばこの晴れの場に居合わせたこと誇りに思えるような喜ばしい光景なのだろう、と想像した洋介に感じられるのは、研究室同様、見た目だけを取り繕った人々が発する、コロンの匂いと、重い疲労感だけだった。
 (村上生体科学研究所に関する説明)
 といっても、二流大学出たての新米研究員に重要な役目が回ってくる筈もない。今は同じような経緯で就職してきた同僚たちと共に、やたらと広い『プレゼンルーム』の端で、所長のハッタリとテクニカル用語と美辞麗句のカクテルのようなご高説を聞くのが仕事といえた。

 「まあ無理もないさ。俺ら新米の中でこのプレゼンの準備で一番泡食わされたの、お前だからな」
 「…ああ、三日前から寝てないからな、さすがに答えてるみたいだ」

 一昨日の最終点検で、このプレゼンの対象である『装置』が、
 ちら、と列の一番端にいる生真面目で通っている同僚が非難がましい目を向けてきた。公式の場で私語は厳禁、とでも言いたいのだろうが、洋介は意に介さなかった。わけのわからないヒーリングミュージックをBGMとして、研究の概要説明が続いている今、どのみち端にいる研究員の話し声など聞こえる筈もない。その思いは横山も一緒だったのか、黙っていろ、という視線を送ると、同僚は決まり悪そうに眼を逸らした。それも仕方がないことなのかもしれない。

 「おい、ほんとに大丈夫か? お前、前にもこんなことあったよな」
 「……ああ」
 「

 あの時の光景は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。初めて自分が、命あるものを殺したと認識した瞬間。”ソレ”は、今回のプレゼンテーションの対象である『装置』の基部として組み込まれ、。

 「……ご承知の通り、現在、真性自閉症」

 「この日本だけでも、潜在的な罹病患者も含めれば一千万人に届こうか、というこの災厄に対して、我々人類は暫定的に原因を捉えてはいるものの、正確な病原の特定は未だに為されておりません。この病の恐ろしさは、近年活発になってきた報道などによって皆様も十分にご存知のことと思います…………」

 自意識この不可解な精神病の原因は、主に化学物質を日常的に大量に服用しすぎた結果、単なる健康食品ですらも自閉ドラッグ的な効能を持ってしまい、 精神鬱病患者に対する過剰な抗精神病薬の投与といわれている。

 「――――それではご紹介させていただきます。われわれ研究所スタッフ一同が三年の月日を重ねて開発した装置、開発コード『Dolphin』です」

 急造の壇上で演説する教授の背後に、控えていた助手が、長さニメートル、高さ一メートル七十センチを包んでいた幌を、ばっと取り外す。
 
 
 集まった数十人の群衆から、おお、と密やかな溜息がつかれる。ゴシップになりそうな外見を期待していたのか、一部の記者は、残念がっているような表情を見せた。一見、大型のCTスキャン装置のような外見である。それが、『Dolphin』の本体であり、

 「…我々は」

 (ドルフィンのシステム説明)

 あくまでも、村上教授には『アニマルセラピーの延長線上』、というスタンスを崩さず、ともすれば世間から白い目で見られがちな、”残忍で冷酷な”動物実験というイメージを払拭し、より世間に受け入れやすくしたい、という狙いがあった。
 今でこそ、電脳技術はある程度の社会的認識を得ているものの、やはり脳を機械化するという行為に対して嫌悪感を抱く人間は少なくない。だからこそ、人間と親和性があり、全く別の形とはいえ精神病治療に関わった実例のある動物のイルカ種を献体として選んだのであって、別にそこそこ脳体積の大きい生き物ならば、何でも良かったのだ。
 治療プログラム――否、人格強制プログラムを打ち込むだけなら、頭に電極をつけて一定のパターンで電気信号を流してやるだけでいい。所詮、人の生命活動なんてのは電気信号で司られている。極論してしまえば、人の生首に電極をつければ、表情の操作、涙を流す、などといった反応を意図的に起こさせることだって出来る。無論、複雑な神経網を持つ脳はそう簡単には出来ていない。
 しかし、電脳化が進む今日、いわばコンピューター・ウィルスが人にも感染する時代である。無論のこと、 幾ら電脳とはいっても、生き物
 無論、それでは倫理的に危ういし、危険が伴うから、という理由で開発されたのが、被験者の脳波を変換し、コンピュータのハードディスク内で擬似的に精神状態を投影し、観測、調査できるように体系づけられたのが擬似精神領域装置<ホワイトスフィア>というシステムだった。これは、現在の『ドルフィン』以前に村上教授が成功させた実験に基づくもので、
 だが、もはや社会現象とまでいえる病気の処方箋だ。中国の先進国入りが認められ、工業製品の国際競争が熾烈なものになっている現在、一層、多忙な社会になっている。もう患者の家族は、植物状態に近い患者を世話する余裕はないし、日々増加する高齢者だけでも手一杯で、その全てを引き受ける程の余裕がないのである。
 死んでくれたらどれだけ楽なことか、むしろ中途半端な効能は必要なくて、極大か極小しか必要ない、という大衆の本音が、「家族による患者殺害事件」等の形で滲み始めている現代において、危険性はそれほど重要視されるべきではない。
 一学生でも考え付くこんな自明の理に、紛いなりにも脳医学の大家である村上教授を初めとする教授連が気づいていない筈もない。大衆受けする体裁を整える為に、大して必要もない観測システムやら何やらをくっつけて、より高く国に売りつけようという欲があるのだ。そんなおぞましい人間どもに作られた道具に、どれだけの意味があるのか――――この実験に、アシスタントとして参加することになってから数ヶ月間、常に抱き続けてきた罪悪感が爆発し、一気に胃が収縮する。

 「おい、平、大丈夫か、調子が悪いなら医務室に……」
 「……でありますので、もし実用化された場合には、現在、六百万人を超えるといわれる潜在的な罹病患者に対して、僅か一月程度の入院費で根本的な治療を施せる見通しが立っております。……現在、多方面から指摘されているように、真性自閉症は、健康食品などに大量に含まれるようになった化学物質の体内での蓄積と、複雑な化学反応による脳内信号の乱れや、電脳に対する異常な拒否反応などが原因とされていますが、私どもの研究はこれまでに正式な法手続きを行った上で、テスターとして幾人かの罹病患者に参加して頂いております。こちらが、その際の実験データで……」

 肉付きのいい丸顔が法悦も極みといった顔で何事かを捲くし立てている。バカバカしい、と平は吐き捨てたい衝動をグッと堪えた。
 つまりは自分達<ヒト>じゃ拭いきれなくなった尻を、機械に拭ってもらおうという責任転嫁に過ぎない。科学の発展というのは、人間の豊かになりたい、という生存原理に基づく欲求に支えられてきた。それは生物の摂理であって、仕方のない事といえるかもしれない。
 だが、自らの欲求を満たす為ならば如何なる他の犠牲も問わない、という意識に陥りやすいのもまた、向上欲の黒い一面なのだ。大衆の自己中心的な意識が正されないまま、社会通念となって時代を覆ったとき、本来理性によって統制されなければならない叡智の箍は外れ、世の中には、ひたすら目前の利益ばかりを追い求め、世界を統合的に視れない生き物が等比級数的に増殖していったのだ。その意味で、科学とは極めて暴力的ともいえる。文民統制のされない軍隊が、いたずらに自らの属する集団の興隆と自他の流血を欲するように。
 本来ならば人が人との対話の間で、ゆっくりと治療していかなければならないものを、機械の力で、より早く、より安く”処理”してしまおう、という極めて即物的で合理的な考え――マス・プロダクツを信条とする国家に百年近くもの間、レイプされ続けてきた国の考えそうなコトだ。底辺に流れる思想の源流は同じ。ただ、工業製品が人に代わっただけのコト。
 聞けば、この研究にはこういった生命を操作する科学の先駆者である、アメリカの企業も注目しているという。中度々訪れる外人は、全て良くも悪くもエポックメイキングといえるこの実験に、投資する価値があるのかどうか、という利益にしか興味がないのだ。規模の民間研究所などが、こうしたベンチャー企業のような事業を主導できるのは、それらの投資家たちの資金力が背景となっていた。そんな人間達の金が給料になっていると
 思考が感情の暴風に押され、加速する。脳の血管が大量の

 「…平? おい、平、どうした」

 薄汚い人間達の欲の力学の摺り合せの末に、命を奪われることになったイルカ――――かつては、水族館で無類の人気を誇ったスターであり、事故で二度とショーが出来なくなった途端にお払い箱にされ、もはや不要のものとして死を待つのみだったイルカを、水族館員である友人を通じて献体の話を持ってきたのは自分なのだ。
 人間と同様、知性のある生き物を――否、そもそもが人と比べられるものではない。例え安楽死を待つのみであった生きた死体を、細胞の寿命が続く限り強引に生かされ続ける『装置』としての業を背負わせたのは、プロイラーの鶏以下の、生命の道を明らかに踏み外した『モノ』にしたのは、世界でも社会でも、国でも所長でもない、他ならぬ自分自身なのだ。
 おえ、とこみ上げてきたもの全てを吐き出す。積もり蓄えたもの全てを、床にぶちまける。ピンク色の胃液と、今朝の朝食の残骸。真っ白に磨き上げられた床を汚してゆく。

 「……お……平、しっか……ど……」

 胃の中身が空になっても、体全身を震わせ、何度も何度も、繰り返し嘔吐する。しかし、罪は吐き出せない。一度犯した罪は、どうあがいても、取り繕うとも、当人から「許し」を得、社会から罰せられて初めて償えるものだ。人は家畜に対して、殺し喰らった分だけ成長し、生命として寿命を全うする事で贖罪とする。だが、洋介には、もはや償うことは出来ない。永遠に贖罪される機会を失ったまま、自分は行き続けるしかないと認識した時、洋介はその罪悪感に心を押しつぶされた。

 「……平!………い……誰か、担架!!」

 なあ、マリン。キリストに原罪を肩代わりさせた挙句、結局己らの生存が為に再びを原罪を犯した生き物に、罪を滅却する道具として十字架を背負わされた者よ。
 いったいお前は、誰に望まれてそうなったんだ? 社会か、人間か、それとも神様か。何の意味を持たされて生まれてきたんだ? これほどまでに他を犠牲にして繁栄しようとする生き物って何だ、人類って何だ? 俺らはこれからどういう道を歩むんだ? 教えてくれ、マリン。

 ――――死に至る病。絶望を患った病人を救えるのは、医者ではない。
 魂にメスはいらない。
 ただ、支えてくれる人の心の温度が必要だっただけなのに。
 人はその欲望を抑えきれず、過ちを犯す。
 



 暗転する視界。
 反転する世界。乱流する思考。強姦される尊厳。放棄される生命。暴走する欲求。抜骨された群衆。
 全てが闇となり、全てが消え去った。












 ――――2059年、12月25日付け、日本工業新聞の一面に、ある記事が掲載された。
 ”村上生体科学研究所、画期的な精神治療システムを開発。今後、厚生省の監査の下、○○大学の系列及び主要な大病院に導入される予定”