晩秋の空を明るく染め上げていた太陽が、今にも稜線の向こうに隠れようとしていた。
 キャンプファイヤーの跡の残り火のような、弱弱しい陽光は、既に大地を暖める熱源にはなりえず、次第に強さを増していく風が、すっかり冷たくなった収穫後の畑を過ぎ去ってゆく。列島全土から見れば北部に位置する、この地方の冬は厳しい。十一月の中旬にもなれば、あれほど暑かった夏の記憶も薄れ、ひたひたと近づいてくる冬の足音に、身を縮めて待つしかない。
 今年の夏は猛暑だったから、冬は相当な酷寒になるだろうというテレビ番組の内容を思い出し、藤野美香は早くも寒さに耐え切れず、クローゼットの奥から引っ張り出してきたマフラーを少しきつめに巻きなおした。

 「寒い?」

  彼女の隣に立つ青年が、唐突に口を開いた。

 「すっごく」

 美夏はやっぱり正直だなあ、と、呆けたように隣に立つ青年は答えた。
 
「だから、ダッフルコート着てくれば、って何度も言ったのに」

 そんなに寒いんなら暖めてやろうか、とにやにやしながら抱きついてくる彼の脛を軽く蹴る。うまく入ったのか、いてぇ、と軽く飛びずさる大袈裟な反応に、TPO弁えずにバカやるからそうなるの、と声を冷たくする。
 冷え切った関係、というわけではない。付き合ってから一年と半、未だに世間一般では、恋人というカテゴリに分類されえる関係だ。キスは勿論、”それ以上のコト”だって何度もしている。しかし、世間一般でいう、「愛情」というのが自分達の間にあるのか、と問われて、ある、と言いきれる自信が美夏にはなかった。
 
 「あれだいぶ古いヤツだし、あんまり気に入ってないから」
 「ひどいな、一応、彼氏からのプレゼントなのに」
 「じゃあ、次はもう少しまともなやつでよろしく」

 高かったのに、と不満を足れる彼の横顔は、色白のせいか夕映えがよく映える。奇麗だ、という感想は出てきても、やはり愛しいという感情は出てこなかった。
 乾いた女だ、と美夏は二十一年の人生の中で幾度も抱いた思いを掘り起こす。友人からも幾度と無く「美夏って冷めてるよね」と言われつづけて来た二十一年間。コンプレックスとも呼べない程度の軽いしこりになっている。それが美夏のいいところだよ、と彼はフォローするが、自分で誇れないものを褒められても嬉しくないというのが彼女の本音だった。

 「だいたい、彼女連れてドライブするのに、こんな寒くて何にも無い所に連れてくる方がどうかしてると思うけど」
 「ぐ、それを言われると痛い」

 サイズの合ってない、大きすぎるダウンジャケットに包んだ痩身を、大袈裟に縮める。いかにも男性的な奔放で無神経な性格の反面、どこか女性的な繊細さを持ち合わせた「彼」の仕草は、時々大仰で、見るものを退屈させない。けれど、やはり愛しさはない。
 勿論、彼の事が嫌いなわけではない。嫌っている男に操を捧げるほど、自分を安売りしているつもりはない。だが、それはあくまでも、スキンシップの延長線上にあるもので、恋人達と呼ばれる存在がそうするように、したいからする、というよりも、何となくそういう雰囲気になったからする、といった感覚を抱いている。

 「でも、美夏に見せときたかったんだよ」
 「こんな国の減反政策で、誰も耕さなくなった畑を?」

 眼前に広がる光景は、雄大と呼ぶには余りにも有り触れていて、人の手の入らない畑と山だけの風景を美しいと思える美的感覚は、美夏にはない。
 まさか、ここの畑耕して一緒に暮らそう、などと言い始めるのか、と本気で不安になる。幾ら冷めた女とはいえ、農家の肝っ玉母ちゃんになることを良しとする程、農業を愛しているわけでも、自分の「女」と世に絶望しているわけでもない。
 疑惑渦巻く胸中を察する素振りもなく、

 「こんな誰も耕さなくなった畑を、さ」
 「なんで?」
 「んー、なんとなく、じゃあダメだよねえ」
 「わかってるなら聞かないこと」

 まあいいでしょ、とわざとらしく明るい声を出して、彼はもたれかかっていた愛車のボンネットから腰を浮かせた。

 「話逸らす気?」
 「そんなことないって。ちょっと喉渇いたからさ、なんか飲み物買ってくるけど、何が飲みたい?」
 
  こんな田んぼと民家しかないような所でも、自販機はあるらしい。埃を被って久しい、農道脇の小さな駄菓子屋の敷地に、ぽつんと置き忘れられたかのように立っている自販機を指差して、彼――――平優貴は訊ねた。少し逡巡した後に、美夏はカフェオレを頼んだ。
 おっけぃ、と明るい返事をして走っていく姿は、青年というよりも、むしろ童顔な高校生と呼んだほうがいい。育ちがいいのか、あまり人を疑うことをしない性格がそうさせているのか、21歳になる今でも、いたずっらぽさの抜けない、不思議な青年だった。
 楽だから、という自堕落な理由で地元の大学の農学部を選んだ彼は、当然のことながら学業に勤しむ好青年というわけではなく、のんべんだらりとした生活を送っている。
 それは、やはり何となく大学に進学した美夏にも言えたことで、定員割れが激しく、そこそこ真面目にさえしていれば進級させてくれるような雰囲気のある大学内で、真面目に学業に取り組もうとする人間は極めて少数派だった。自然な流れとして、すっかりそんな彼の生活に飲まれつつある自覚がある美夏だが、当分の間、パターン的な生活を崩すつもりはない。美夏にはその方が楽だったし、彼もそれを望んでいるようだったから。
 はあ、と息を吐き出すと、白っぽさが混じっていた。息も白む気温なら、この寒さも仕方がない。
 
 「」
 「やっぱりトマトジュースなんだ」
 「好きだからね」
 
 そんな彼に六年もの間、”何となく”惹かれ続けている自分は、やっぱり変な女なのだろう、とぼんやり考えた美夏は、手渡された缶を開け、一口飲んだ。
 刹那、大嫌いな苦味と酸味が口いっぱいに広がり、思わずぶっと噴出す。はしたない、と感じる理性よりも、少し離れた場所で隣でしてやったりとばかりに大笑いしているバカ彼氏に飲みかけの缶をぶつけてやりたい、と思う衝動の方が先に訪れ――――一瞬の躊躇もなく、実行に移した。冷めた大気におもいっきり顔にぶちあたり、
 ざまあみろ、と思った。


 そんな十一月の夕暮れ。
 ちょっと不思議な関係の恋人達の影は、重なることも、離れることもなく、ただお互いの在り様を映していた。